エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌
昭和24年、一明は黒田鉄工所から独立し、小物精密部品の製造を手がける、加藤鉄工所を設立。エイベックスの第一歩を歩み始めた。
「丁稚で修業し、腕を磨いたら、ゆくゆくは独立する。のれん分けのようなものだ。それが当時の常識だった」と、保彦氏は“兄貴の卒業”を祝福した。

今でいう建て売りのモデルハウスを、土地付きの中古で購入し、住居兼工場とした。玄関近くの応接間を改装して工場に。6畳間からの、夫婦2人での出発だった。
「まずボール盤を1台入れて、その後にターレット旋盤を入れて…。最初のうちは仕事がなかったから、ボール盤の仕事を、実家の黒田からもらっていました」と、照子は言う。

仕事は、夫婦2人の総出で行っていた。照子は「主人も私も、みんな油まみれになって働きましたよ。大八車を引いて、材料を運んで。昔は朝7時から仕事が始まって、終わらなければいつまでも仕事をしていた。休みは、1日と15日の毎月2日だけでしたね」と、当時を語る。
照子が、幼い子ども(現社長の明彦)をおぶって旋盤を使うことも珍しくなかった。それほど必死な時代だった。

自動車部品を本格的に手がける以前、加藤鉄工所の主要な製造品は、映写機部品(エルモ社)とミシン部品(トヨタミシン=愛知工業)だった。
映写機部品は「近くにエルモ社があったので、社長が直接エルモ社に営業に足を運んだことで、取引が始まりました」。
ミシン部品は、黒田鉄工所からの紹介だった。
保彦氏は「愛知工業株式会社(以下愛知工業)との取引で、先に黒田が、ミシンの針棒を作っていた。そのとき、愛知工業がミシン部品(針棒メタル)の製造先を探していたので、加藤さんを紹介したんです」と、当時の経緯を説明する。

愛知工業とは、アイシン精機株式会社(以下アイシン精機)の前身だ。今に至るアイシン精機との強固な協力関係は、この頃から連綿と続いていると言える。

加藤鉄工所の創業時、世間的には不況の真っ直中にあり、自動車メーカーの下請けや孫請けがその直撃を受けていた。しかし幸いなことに、加藤鉄工所はエルモ社との取引が好調で、さほど影響は受けなかった。「エルモ社のシャフトを製造する際、真ちゅうの切り粉がいっぱい出た。その切り粉もよく売れたんです」と、照子は笑う。
 その後、昭和25年からの朝鮮特需によって、愛知の製造業は息を吹き返した。