エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌
昭和30~40年代半ばまでの大手取引先は、針棒メタルのトヨタミシンとセイコーミシン、そして映写機のエルモ社の3つが大きな取引先だった。しかし、ブラザーなどのミシンメーカーの台頭もあり、トヨタのミシン事業は徐々に低調になっていった。そして昭和43年頃(1968年)、愛知工業は人件費の安い台湾にミシン工場を移管。家庭用のトヨタミシンとしての仕事は、その時点で終了した。わずかながら業務用ミシンの仕事は継続したが、量は微々たるものだった。

現社長の明彦が、当時を回想する。
「ミシン工場の台湾移転の話は、その数年前から創業者(一明)には話しが伝わっていたようです。移転するまでの数年で、その仕事の穴を埋めて欲しいということだったんでしょう。

社長もいろいろ営業に頑張り、愛知工業も優先的に仕事を回してくれたようです」。
陰の努力が実り、仕事はスムーズに転換し、従業員には不安を与えることなく、極端な売上げの減少を防ぐことができた。

その一方で、エルモ社関連は好調だった。昭和43年には、映写機シャフトの製造用に、野村精機製ピーターマンを導入。ピーターマンの担当は、山下氏だった。「シャフトは1日に300個、月に6000個ほど製造していました。ピーク時には、全社売り上げの4割程度を占めていたんじゃないでしょうか」。

しかし、エルモ社の最盛期は長く続かなかった。時代が、わずか1年ほどの間で、8ミリ映写機からビデオ機器に急速に切り替わり、その急激な減少は凄まじかった。8ミリという産業そのものが、事実上消滅の危機に直面したのだ。当時、エルモ社は1000人近くのリストラを断行したほどだった。余談だが、そのリストラされたエルモ社の社員を、加藤精機が3人ほど雇用している。

エルモ社の業績悪化は、加藤精機の業績悪化に直結する問題だった。その穴埋めのため、一明社長や明彦専務が外注先を訪問し、仕事の紹介を求めたこともあった。「何とかしなければいけない」という思いが強かった。

運が良かったのは、景気全般はオイルショックを乗り越えた頃で、上昇気流にあったことだ。明彦は言う。「仕事をかき集め、その中のいくつかが軌道に乗り、最終的にはカバーできたんです」