その一方で、エルモ社関連は好調だった。昭和43年には、映写機シャフトの製造用に、野村精機製ピーターマンを導入。ピーターマンの担当は、山下氏だった。「シャフトは1日に300個、月に6000個ほど製造していました。ピーク時には、全社売り上げの4割程度を占めていたんじゃないでしょうか」。
しかし、エルモ社の最盛期は長く続かなかった。時代が、わずか1年ほどの間で、8ミリ映写機からビデオ機器に急速に切り替わり、その急激な減少は凄まじかった。8ミリという産業そのものが、事実上消滅の危機に直面したのだ。当時、エルモ社は1000人近くのリストラを断行したほどだった。余談だが、そのリストラされたエルモ社の社員を、加藤精機が3人ほど雇用している。
エルモ社の業績悪化は、加藤精機の業績悪化に直結する問題だった。その穴埋めのため、一明社長や明彦専務が外注先を訪問し、仕事の紹介を求めたこともあった。「何とかしなければいけない」という思いが強かった。
運が良かったのは、景気全般はオイルショックを乗り越えた頃で、上昇気流にあったことだ。明彦は言う。「仕事をかき集め、その中のいくつかが軌道に乗り、最終的にはカバーできたんです」