エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌
新社長のもと、加藤精機はよりアグレッシブな変化を遂げることになる。
昭和57年、昭彦社長が手がけた第一の事業は、工場の建て替えと拡張であり、鉄筋コンクリート3階建て1棟の新工場を竣工した。また、平成5年には社名変更と同時にそれまでノコギリ屋根の建物を全面的に建て直し、3階一部4階の第一工場を竣工した。
新工場の竣工には、いくつかの理由があった。

1つ目が、イメージだ。ノコギリ屋根の木造工場は古く、いかにも町工場というイメージで、人材確保にすら影響が出かねないほどだった。

2つ目が、仕事の効率化だ。邑松氏は「それまでの工場は柱まるけで、機械のレイアウトが非常にやりづらかった。だから、新工場では極限まで柱の数を減らしたんです」。

そして3つ目が、先代社長からの悲願である『社員50人』の実現だった。50人は快適に働ける環境を作りたかった。「50人というのは、会社の規模を示す一つの基準なんです。50人規模の会社なら、お客様にも安心してお付き合いできると判断していただけるんです」。

新工場については、社内でもさまざまな意見があった。「借金までして、何故そこまでする必要があるのか」という声もあった。しかしあえて実行に移すことで、新時代の幕開けを高らかに宣言したとも言える。

実は、工場を移転するか、建て替えるか、相当迷ったという。「工場を移転するのは、工場付近に住んでいる社員には都合が悪い。また、会社の資金的な体力からいっても難しかった。大変だけれど、工場を建て替えることにしたんです」。
建て替えるとなると、工事中は別の場所で操業する必要がある。そのための仮工場を必死になって探し、着工の3か月前に何とか空き倉庫を見つけることができた。「ぎりぎりセーフでしたね。しかも会社近くの熱田区金山だったので、助かりました」

新工場が完成するまでの半年間は、金山の空き倉庫に機械を移動し、操業を行った。仮工場の移転は邑松氏など3名だけで計画を練り、たった3日間で110台の機械を移動したというから恐れ入る。
3日とはいえ、機械が止まる。その間の在庫をあらかじめ作り置きするなどの前準備もあり、邑松氏たちは3日間は家にも帰れない状態だった。

久野氏「機械は同じでも、違った環境で同じ製品が製造できるとは限らない。工程変更のための、何十点という検査をすべてパスすることが大変だった。
その甲斐あって、仮工場でもスムーズな操業ができた。そして半年後、新工場が完成すると、全く逆の作業を行う必要があった。

機械を仮工場に動かし、また新工場に戻す。とにかく大変な作業だった。しかし明彦社長も、社員も若く「やろう」という心意気が上回っていた。「普通の会社ではあり得ないことなんです。そんな恐ろしいこと、今なら絶対にやりませんがね」と、明彦は当時を思い出して笑う。

新工場は、明彦のイメージ通り、外観はあえて切削加工をイメージさせない、曲面を多用したモダンなデザインとなった。
工場内は、整理しやすいよう、シンプルで広い間取りを心がけた。
また「日本の家は土足で上がらない」と、スリッパを履いてお客様を案内する「うわばき工場」とした。これには、土足による汚れの侵入を極力抑える効果もある。対外的には清潔感を大きくアピールする武器となった。
そして食堂の定員は、50人に設定した。「食堂に一堂が会せば、今の会社の規模が目で分かりますからね。空席を埋めるために、みんなで頑張ろうという気になります」。