エイベックス60年の歩み/AVEX記念誌

AVEX記念誌
邑松氏の入社は昭和29年。「当時、従業員は私も含めて総勢7人でした。入社式なんてそんな贅沢なものはなく(笑)、卒業式が終わったらすぐ、3月中から働き始めていましたよ」と、邑松氏は当時を思い出して笑う。

4人の中でもっとも後輩の山下氏が入社したのが、昭和32年。「その頃には、従業員数は18人になっていました」。この数年で、スタッフの数は倍以上に増えたことになる。
会社規模の拡大に合わせ、昭和33年にノコギリ屋根式の工場を2棟増築。工場内の南側は陽当たりがよく、自慢だったという。
旧工場の機械は、天井にモーターがあり、それをプーリーとベルトでつないで機械を動かしていた。「朝出社したらハシゴで屋根裏に上り、軸受けに油をさすのが日課でした」(加藤氏)。新工場の機械は、より操作が簡便なモーター直付けが主流となった。

当時の仕事内容はどうだったのか。久野氏は「ミシンが全盛の時代でしたね。トヨタミシン(愛知工業のトヨタブランドの足踏みミシン)、そしてセイコーミシンの針棒メタルが、当時、一番大きな仕事でした」と、言う。もちろんエルモ社も快調だった。

その頃の勤務状況は、朝8時が始業時間で、夕方5時45分が終業時間。時給で、1時間28円だった。「月給にすると5、6千円ほどになりましたね」と、邑松氏は説明する。

おおらかな時代だったと、誰もが口を揃える。休日は日曜だけ。機械もよく壊れ、遅くまで残業するのが普通だったという。残業代もなく、でもそれが苦痛とも思わなかった。ストレスの溜まらない職場だった。
 「奥さんはどんなに遅くなっても、従業員が仕事が終わるのを、お勝手口で待っていてくれました。夜食を作ってくれたりね。本当に良くしていただいた」(加藤守氏)。

照子は当時を思い出し「主人は自転車、私は乳母車に材料や製品を乗せて、納品に行きました」と、述懐する。岩元氏によると「そのうち社長が、125CCの単車を購入しました。よっぽど嬉しかったんでしょう、毎日走ってましたね(笑)。もちろん、商売の大きな戦力になりました」。
 その数年後には、セコハン(中古)の4輪車を導入。照子いわく「終戦後には、クルマに乗れるなんて夢のような話しでした」。

その半面、品質管理や不良品の量には非常に敏感だった。最後は一明社長が、自らの目で確認した。加藤守氏は「社長から、ボルト1本落ちていただけで『お金が落ちてるぞ』と言われました。経営者的な感覚に、敏感でしたね。